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  • 2008.01.14 Monday
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インド旅行記2006夏 6.味気ないMGロード

 起床は8時半。顔を洗い、布団の上でガイドブックを眺めながらどこへ行こうかと悩んでいると、突然部屋の裏から音楽が流れ出した。インド国歌だ。実は、このホテルの裏はサリー生地の工場で、操業開始の合図として国歌を流しているようであった。外出しようと部屋の扉を開けたが、腹具合が良くないことに気が付き一旦トイレにこもる。改めて扉を開けて出発。「グッドモーニング」とフロント氏に声をかけながら、鍵を預ける。

 まずはオートリクシャーで駅へ行く。明日の夜バンガロールからムンバイに向けて出るウダヤン急行の切符を手に入れたかった。大都市の駅なので、駅舎とは別にチケットオフィスがあり人々が列にならない列を作っていた。予約シートに必要事項を書き込む。この列車は丸24時間かけてバンガロールからインド中部の大都市ムンバイへ行く列車である。この先の移動はムンバイからデリーまでの飛行機しかないので、電車での移動はこれが最後だ。少し悩んで予約シートの「Class」の欄に、この列車では一番豪華な「エアコン付き2段寝台」と書き込んだ。

 予約シートを握り締めて列にならない列に並び、やっとこさ窓口まで辿り着きシートを渡してお金を払う段になって、手持ちのルピーが切符代に足りないことに気が付いた。仕方が無いのでクレジットカードを出したが、窓口氏は「カードは無理だ。隣の列に並べ」と無表情にジェスチャーをする。仕方がないので、隣の列になっていない列に並び直す。ほどなく、日本円にして4000円ほどの切符を手に入れた。予約した座席は日本で言う二段式B寝台とほぼ同じはずだが、同じ距離をB寝台で移動したと考えると恐ろしいほど安い。そして、この切符を買った時点で、今回の旅で移動手段の選択をする場は全て終わってしまった。あとは、ムンバイ→デリー飛行機とデリー→成田の飛行機だが、この二つのチケットは日本で取得済みである。旅は確実に折り返し地点に来ていた。

 駅から、バンガロールの中心街MGロードへ向かうために、オートリクシャーと料金交渉をする。大通りに出ると、日本人の僕はいいカモなので放っておいてもリクシャーが寄り付いてくる。

親父1「ハローフレンド!リクシャー?」
俺「MGロードまで乗りたい」
親父1「乗りな。連れてってやる」
俺「待て、ちゃんとメーターを倒せ」
親父1「道が混んでるからメーターはダメだ」
親父1、走り去る。

それを見ていた親父2
親父2「MGロードなら100ルピーで連れて行ってやる」
俺「バカ言うな。30ルピー程度の道のりだろ?」
親父2「30ルピー?話にならん」
親父2も走り去る。

 結局、親父3に60ルピーで行ってもらったが、どう考えても払いすぎだった。大都市ほど観光客慣れしているのだろうか。

 MGロードはバンガロールの高級ショッピング街(日本の銀座などとは違う)で、道行く人の身だしなみもイイ。大きなリーバイスストアーやケンタッキーなどもあって、混沌と商店が集まっていたマイソールの市街地とはエラく違う。まずは両替のためにトーマスクックへ行く。工事中のショッピングセンターの中にあったので判り辛かったが、門衛がドアを開けると中は別世界のように涼しかった。相変わらずマイペースに仕事をこなしている上に、客も多かったので、100ドルを両替するのに40分もかかった。4550ルピーに化けて帰ってきたお札を、財布に入れる。

 両替をした後はしばらくMGロードをうろうろしてみたが、とくに面白みのある場所ではない。街全体がデリーの高級マーケットと同じ感じであった。バリスタを見つけたので、入ってのんびりする。暑い中歩きつかれたら、涼しいバリスタかネットカフェに行って身体を休めることだけは習慣づけた。環境の違うインドを日本人がうろつくときは、できるだけ休む時間を増やして無理をしないのが得策なのである。この夏休み中に、自分と同じサークルから三人がインドへ行ったが、旅の最中熱を出さずに日本に帰ってきたのは自分だけであった(喉を途中で痛めたが)。安宿に固執せず、休むときは休むという姿勢をとり続けていたことが理由であるのは間違いないと思う。もっとも、インドに住んでいたことがあるからこそ無理をしなかった、というのも事実だが。

 1時。Rice Bowlという中華料理店で昼食。インドの中華は、本場の中華とはまったく味が違う「インド中華」という別ジャンルの食事になっている。「チキンベジタブルスープ」と「スライスドチキン&ベジタブル」を、インド米を炊いただけの「バスマッティライス」でおいしく食べる。・・・が、バスマッティライスの量が多すぎたので食べ切れなかった。しかも全部で200ルピーを超えた。一回の食事としては、これまでで一番高くついた。

 再びMGロードをうろつく。周辺のショッピングモールで油を売る。途中で何気なく入ったおもちゃ屋で、インド国産車アンバサダーの模型を見つけたので、思わず衝動買いしてしまった。ネットカフェも見つけた。長いことネットをしていなかったので立ち寄る。ムンバイで別れた友達との連絡も途絶えさせてしまったので、心配させてはならないという気持ちもあった。今回の旅の間、僕らの中でミクシーがお互いの無事を報告する連絡手段として機能していた(と、自分では思っている)。驚いたことに、友人も同じ時間帯に遠く離れたコルカタでミクシーをしていたので、しばしリアルタイムでミクシーメッセージの会話を楽しんだ。

 半日いたMGロードをそろそろお暇することにして、行く当ても無く西へ歩いてみた。州立博物館や、後の10月にサッカー日本代表がインドと対戦したスタジアムがある。州立博物館は閉館寸前だったが、その隣の科学技術博物館はまだ空いていたので入ってみることにする。入場料は15ルピー。中には、ジェットエンジンの展示や、初期のコンピュータの実物、衛星通信の仕組みを解説した展示などが陳列されていて、充分に楽しめた。親子連れが非常に多く、父親が息子にエンジンの仕組みを説明しているのがほほえましかった。建物内の本屋で、インドの地図を買う。明日、夜行列車に乗るときの暇つぶしに地図と照らし合わせながら車窓を楽しみたい。

 リクシャーでホテルに戻り、昨日と同じレストランで夕食をとる。ここのダルカレーは微妙だったが、今日食べたチキンビルヤーニはそこそこの味だった。ホテルに戻りテレビを付けると、『風雲たけし城』のヒンディー語(?)吹き替え版が放映されていたので驚く。かつてカナダでこの番組が英語吹き替えで放映されていたのを思い出す。

 10時半就寝。

インド旅行記2006夏 5.北上!バンガロールへ

裏のバスターミナルの騒々しさで目が覚める。この国はどこの町も朝から本当ににぎやかである。午前8時半。高地マイソールの朝はからっとしていてすがすがしい。今日は列車でやや北へ上って産業都市バンガロールへ向かうつもりである。バンガロールへ向かうシャタブディエクスプレスの発車時間は午後二時なので、それまでは町をぶらつこう。

ホテルを出る前に、この3日でどのくらいお金を使ったか計算してみた。以下、僕の旅ノートからの抜粋。

<9月3日AM10:40までの使用金額>
Rs 2970 約7425円。
         およそ一日2500円使用

インドの安宿は、チェックアウト時間を設定せず大抵24時間制を取っている。チェックインした時間から24時間で一日分の料金が課される。つまり、昨日の午前九時にこの宿にチェックインした僕は、今日の午前九時までにチェックアウトをすれば一日分の料金を支払うだけですむわけだ。しかし、チェックアウトした時間は午前十一時。もう一日分余計に支払わされるかと覚悟していたが、フロントの兄ちゃんに「2時間オーバーだよ」とニヤリとされただけで一泊分の料金を支払うだけで済んだ。杓子定規でないところがありがたい。

それから3時間、重たいバックパックを背負ってマイソールの町をぶらついた。途中RRRというレストランで昼食をとった。レストランRRRは町食堂といった趣で、まだ昼時ではないらしく中はがらんとしていた。店員に「メニューを見せてくれ」と言ったが、「イエッサー」と愛想よく答えるだけで持ってきてくれない。仕方が無いので「何があるの?」と店員に訊くと、なんだか良くわからない料理名を次々と挙げた。辛うじて「チキン」という単語が耳に入ったので、よくわからないが「チキンプリーズ」と言ってみる。

テーブルの上には鉄製のコップとバナナの皮が置いてある。バナナの皮が皿代わりになるのだ。鉄製のコップには水が汲まれている。こういう水には手を出さないほうが、身の為腹の為である、と勝手に納得する。インドに来て3日。まだおなかは壊していない。

程なくやってきた料理は、インド版カレーピラフの「ビルヤーニ」だった。チキンがどっさり入っている。スプーンがあったが、ここはインド流にしたがって盛り付け皿からバナナの皮にビルヤーニを移して、右手で行儀良く食べてみる。バナナの皮があまり清潔そうでないのが気になったが、ビルヤーニは非常においしく鶏もしっかりとした味であった。鉄製のコップに入った水は飲用ではなくバナナの皮を清めるための水であると気付いたとき、僕は既にビルヤーニを半分以上食していた。

100円程度の昼食を済ませて駅へ向かう。辛い料理を食べたので汗が吹き出る。日は既に高く、今日も暑い。昨日手に入れられなかった時刻表を無事手に入れて、ホームへ移動する。シャタブディエクスプレスは既に入線していた。この特急列車はマイソールからバンガロールを経て、丸一日かけて南インド最大の都市チェンナイ(マドラス)に向かう、全車エアコンつきの豪華列車である。インド最速の列車なので、インド版新幹線とも言われる。

高いステップを登ってシャタブディエクスプレスに乗り込んだ。車内はブルーのビニールレザー張りのシートが並んでいる。シートは日本の特急列車のように転換できないので、みんな後ろ向きに座ることになる。窓は遮光ガラスなのだが、色がきつ過ぎて外の景色がセピアに染まって見える。エアコンが寒いので長袖を取り出す。発車時間が近づくに連れて乗客が増えてきた。一昨日から昨日にかけて乗った深夜バスとは客層がえらく違う。隣にすわったワイシャツのおじさんは英字新聞を読んでいた。斜め前のやり手サラリーマン風の男は、席に着くなりノートパソコンを取り出してなにやらファイルを開いている。やはり一般庶民が乗るような列車ではないのだ。発車間際になって給仕がミネラルウォーターとクッキーとキャンディーを配る。それからウェルカムドリンクのマンゴージュース。サービスは至りつくせりといったところ。

列車は発車の合図も、衝撃も無く走り出した。一日半お世話になったマイソールに別れを告げる。速度を上げると、恐ろしいくらい列車は揺れだした。線路の状態がよくないのだろう。激しく揺れながら、エアコンをガンガンに効かせたシャタブディエクスプレスはデカン高原の草原地帯をバンガロールに向けて走る。揺れの中でうとうとと眠ってしまった。

1時間半ほど眠って目が覚めたとき、列車はだいぶ速度を落として家々が密集する地帯を走っていた。踏切を通るたびに、たくさんの車や人が待っているのが見える。ただし遮断機はない。大きな都市が近いようだ。やがて、やや大きな駅で電車が停まる。バンガロールに着いたか?と思った。車内放送なども全く無いので、どこの駅についたのか判らないのだ。時刻表どおりに走っていないが、だいたいの予測を立てると、もうバンガロールに着いていてもおかしい時間ではない。しかし、他の乗客も降りようとする気配が無いのでしばらくじっとしてると、また動き出して15分ほど走り、さっきの駅とは比べ物にならないくらい大きな駅に進入した。

16時半。南インド最大の産業都市バンガロールに到着した。二時間を共にした列車からホームへ降りる。揺れが足に残っているので、足元がふらつく。地下道を通って駅を出ると、リクシャーワーラーやあやしげな人々が一斉に話しかけてくる。「ホテルは決まっているか?」「市街地まで安く連れて行ってやる」。彼らを振り払って、駅前の大通りに出る。ここにも客待ちのリクシャーが手ぐすね引いて待っていたが、彼らを無視して道を走る流しのリクシャーを拾う。確証は無いが、駅前や空港で客待ちをするドライバーはあまり信用できないのではないか?と僕は思っている。

流しのリクシャーワーラーを捕まえて交渉をするが、なかなか希望通りの値段で行ってくれない。「メーターを使え」と言っても、みんながみんな「壊れている」の一点張り。疲れてきたので次に捕まえたリクシャーも同じ状況なら、若干高くても妥協しようと思ったら、「メーターで行くよ」というドライバーに当たった。リクシャーに乗って、目星をつけていたYMCAに行ってもらおうと思ったが、場所がわからないと言う。仕方が無いので、その近くの州政府観光局に行ってもらうことにするが、それもわからないと言う。とりあえず付近の道の名前を伝えてそこまで行ってもらうことにする。走り出した瞬間、雷が鳴って雨が降り出した。しかも、道が混雑している。

目的の道まで来てもらったが、観光局の場所がわからない。進んだり曲がったり、Uターンを繰り返したり、他の人に道を聞いたりすること30分。ようやく観光局に辿り着いた。雨はもう止んで、大きな虹がかかっていた。感謝の気持ちを込めてメーターの値段に若干色を付けてお金を支払った。丁寧に礼をするドライバーと別れて、地図を見ながらYMCAがあるはずの方向を進むが、なかなか辿り着かない。地図ではYMCAは緑の多い地区にあるはずなのに、自分は下町っぽい建物が密集する路地の中にいる。日が落ちてきた。Hotel Comfortという、派手な電飾がされたホテルが見える。疲れたのでそこで宿泊しても良かったが、あまり環境が良くなさそうだ。まずはYMCAを目指そう。お祭りが近いらしく、街のあちらこちらに飾り付けがなされている。

1時間半も彷徨ってようやくYMCAに着いたころには、日は沈んでいた。が、散々探し回ってようやく見つけたYMCAのフロント氏は「ここは会員制なので、宿泊できません」と仰る。もうクタクタだ。どこかいいホテルは無いか?とフロント氏に尋ねてみた。教えられたのは、あのHotel Comfortだった。

Comfortで部屋を見せてもらう。広くて清潔。おまけにシングルなのにベッドはダブル。一泊800ルピーは明らかに予算オーバーだが、ここに宿泊することにした。決め手は洋式トイレだった。実は、昨日泊まったマイソールのホテルは、インド式トイレで出るものが出なかったのだ。使い方もよくわからなかった。
チェックインをするためにフロントに降りると、アジア系の顔をした若い男二人が何やらフロントの親父と言い合っている。やがて、一通り話が済むと僕に話しかけてきた。彼らはマレーシア人で、一泊だけこのホテルに泊まり、これから飛行機でクアラルンプールに帰るという。空港までの車を手配したのだが、ふっかけられたのだそうだ。やがて別の車が来る気配がして、彼らは僕と握手を済ますと車に乗って行ってしまった。インド人以外の人間と会話したのは久しぶりだった。

チェックインを済まし、清潔な部屋で旅装を解く。雨が降った直後の道を歩き回ったので、撥ねた泥水でジーパンから砂がざらざらと落ちてきた。今回、ズボンはこのジーパンしか持ってきていないので洗いようが無い。他の下着やTシャツをバケツに突っ込んで、洗剤で洗う。ついでに洋式トイレで何日か振りの用を足す。

それから街へ出て夕食を探す。外は祭り。像の神様ガネーシャのお祭りのようだ。爆竹が鳴り響き、人々が踊り狂っていた。ちょっと離れた落ち着いた地区まで歩いて、目の前にあったビジネスホテル風のホテルに付属するレストランで、お馴染みのダルカレーを頼む。ここでは中華もやっているようで、チキンヌードルスープも頼んだ。このスープは非常においしかった。これに水とチャパティで75ルピー(300円以下)。

シャワーを浴びる。やはり水は出ないが、水量は豊富だったので豪快に頭を洗い、身体を洗ってさっぱりした。毎日サンダルで歩いているので、そろそろ足のサンダル焼けが目立ち始める。

23時、就寝。

インド旅行記2006夏 4.フレンド野郎とマイソール

旅には二種類あると思う。

一つは「点の旅」。この種類の旅で重要なのは、それぞれの観光地でいわゆる「観光」を行うことである。京都旅行を例で挙げれば、この場合重要なのは「金閣寺」や「清水寺」や「渡月橋」で京都の歴史や文化に触れることであり、その土地までの「移動」は旅としてはカウントされない。個人旅行でこのタイプの旅行をする人も多いが、この種の旅の代表的な例は、ツアーや修学旅行などの団体旅行に挙げられよう。その土地、土地で色々と経験するが、移動は新幹線や貸し切りバスで睡眠や旅行参加者との会話などで終わってしまう。この種の旅の思い出は、訪れた観光地での経験のみであって、それは地図で示してみれば「点」でしかない。

これ対して「線の旅」というものもある。このタイプの旅では、名所を巡るだけでなく、移動中も移りゆく景色や自分が今移動している地点を常に意識し、その土地に住まう人々の様子を観察したりする。この種の旅に使われる移動手段は、鈍行列車であったり、バスであったりすることが多い。青春18切符などは、完全にこのタイプ向けの切符であろう。後々になって記憶を思い返すと、その思い出は「点」のような断続的なものではなく、「線」のような連続したものとして思い出される。

「だとすれば、今自分が行っている旅は後者か。」

そんなことをぼんやりと考えているうちに、バスの中で眠っていたらしい。ギュウギュウのバスで、固定された姿勢しか保てなかったので、腰が痛い。周りは皆眠っているようで、いびきが聴こえてくる。バスは超満員で、床に横たわっている人で通路はいっぱいだった。

バスは時折休憩を取るが、ほとんど走りっぱなしだ。僕が目覚めたとき、バスは急な坂をエンジンをぐわんぐわん言わせながら登っているところであった。外は時折明かりが見える程度で、街灯も家があるところにだけあるだけで、「全く無い」と言ってもよい。しかも、標高が上がっているからなのか、寒い風が窓から容赦なく吹き込む。窓を閉める。黒みがかった遮光窓なのでただでさえ暗い車窓が、ほぼ完全に見えなくなった。

バスは、闇の中を右へ左へ曲がりながらエンジンを唸らせて坂を登っている。マイソールは内陸のデカン高原に位置するので、デカン高原に向けて坂を登っているのかもしれない。昼間だったら景色が良かっただろう。しかし、今は対向車の明かりと僅かな民家以外は闇ばかりだ。再び意識を飛ばす。

次に目が覚めたとき、隣の人が小太りの男に代わっていた。見覚えのある顔で、確か最初の休憩所で僕の前に座る白人女性に話しかけていた男だ。途中のバス停で元々となりに座っていた人が降りたので、陣取ったのだろう。僕が起きたとき彼も起きていて、最初このバスの中でただ一人の東洋人である自分を珍しそうに見ていたのだが、やがて耐えられなくなったらしく「どこから来た?」と、いつもの質問をしてきた。この国の人間は、まず最初に出身地を訊くのが慣例なのだろうか?

「日本から来た。」
「日本のどこだ?」
「千葉だ。東京から電車で1時間くらいのところだ。」
「そうか。どこに行く?」
「マイソールに行く。」
「奇遇だな、フレンド。俺もマイソールに行くんだ。」

二言、三言言葉を交わすと「フレンド」に格上げされてしまうのも、この国独特だと思う。

彼と交わした会話を総合すると、彼はマイソールで一人暮らしをしつつ薬学を学んでいて、今は帰省の帰り。母語はタミル語だがヒンディー語や英語も堪能。ここまで会話したところで、彼は、
「日本人は何語を喋るんだ?」、と訊いてきた。
「日本人は日本語を喋る。インドみたいにたくさんの言語は無い。」と答える。

 あとは、家族構成だとか、日本食はどうだとか、インド料理はこうだとか、とりとめも無いことを話した。途中で恋人は何人いる?だとかフ○ックは好きか?とかいう話まで話題が進んだときは、さすがにうざったかったが。ただ、彼が、「日本と聴いて思い浮かぶのは『トーキョー』、『ヒロシマ』、『ナガサキ』の三つだけだな。」と、指を折りながら言っていたことだけは強く記憶に残っている。

 やがて朝日が昇り、外が明るくなり始めると、自分達の乗っているバスがどういうところを走っているのかが明らかになってくる。外は深い森(木々の丈は低め)で、道は簡易舗装、街灯は一本も立っていない。朝霧が出ている。これでも一応幹線国道のようで、早朝だというのにトラックや車と頻繁にすれ違う。

 隣の薬学部生との会話は一通り済んで、しばらくお互いにだまりこくっていたが、彼が突然自分の携帯をいじりだして「日本ではどんな携帯があるんだ?」と訊いてくる。日本の携帯電話を持ってきていたので、取り出して見せると、珍しそうに眺め始めた。カメラで写真を撮ってみたり、動画を撮ったり一通りいじり終わると、メールアドレスと電話番号を教えてくれと言う。
 出会って数時間しか経っていないような人間にアドレスを教えるのもどうかと思うが、とりあえず携帯電話の番号とPCのアドレスを伝える。お金がかかるが、かけようと思えばインドからこの携帯にかけることも可能だ。(そして一ヵ月後に彼は本当に電話をかけてきた)
 アドレスを教えると、今度は「今日はどこに泊まるんだ?」と言う。
 
 「宿は到着してから決めるよ」
 「うちに来ないか?観光地には足がいいぞ。」

 ありがたい申し出ではある。そして、インド人の中流階級の学生が一人暮らしでどういう生活をしているのかは、非常に興味深いところである。だが、この国では人を信用しきって人任せにするといい結果にはならないことが非常に多い。まして、異国の知らない街で、知り合って数時間の人の家に突然転がり込むなど、インド人の感覚はわからないが日本人の感覚(少なくとも自分の感覚では)ではあり得ない話である。ここは転ばぬ先の杖である。

 「いや、ガイドブックからいくつかピックアップしているからいい。」
 「そんなこと言わずに泊まれよフレンド。」
 「いいアイディアだが、俺は別にいいよ。ノーサンキュウだ。」
 「宿は高いぞ。うちに来ればタダなのになんで断るんだフレンド。」

 しつこい。そして、こちらの貧弱な語彙では断り方のレパートリーに限界がある。答えに窮する。

 「だけど、俺は一人で宿を探したいんだ。そういう旅をしているんだ。じゃあ、宿が見つからなかったら行かせてもらうから、住所だけ教えてくれ」と言って、住所と電話番号をノートに書いてもらった。悪意が無いのはよくわかるし、こちらとしても惜しい申し出ではあるが、その対応が限界だった。

マイソールの街は、突然木々の間から現れた。簡易舗装の道路が、突然広い道路に変わり、交通量があっという間に増えた。バスはまず郊外のバススタンドで一部の客を降ろし、市街地に入るとすぐにバスターミナル着いた。ほぼ定刻どおりの到着。12時間もお世話になったバスに別れを告げる。例の薬学部生は「本当にうちに泊まらなくていいんだな?」と言う。「うん、宿を探すよ。」と答えると「そうか。宿はこっちに多いぞ。」と、バスターミナルの正面を指差して「じゃあな。フレンド!」と手を振った。「ありがとう!」と手を振り返すと、次の瞬間には彼の興味は、荷物を一生懸命降ろす白人女性たちに移ったようで、何やら話しかけていた。

僕は、ガイドブックで目星をつけていたバスターミナル裏のWoodside Lodgeをすぐに見つけて、宿の親父に部屋を見せてくれと頼んだ。すると親父は若い青年を呼び出して、部屋を案内させた。
部屋は、小さなシングルベッドを二つ並べたらもう何も置けないくらい狭く、天井には例によってファンが今にも落っこちてきそうな音を立てて回っている。風呂場は見た目がかなり汚く、トイレは完全なインド式だ。しかし、個室なのにこのホテルの値段は一泊90ルピー(250円以下)である。これはドミトリー並の値段、いや、大都市ならドミトリーでもこの値段では泊まれない。部屋は汚く、ベッドのシーツにはシミが目立っていたが、値段に惹かれて宿泊することにした。時刻は午前九時。今すぐにでも動き出したいが、前日はバスであまり眠れなかったこともあるので、とりあえず仮眠する。

正午ちょうどに目が覚めた。すぐ裏がバスターミナルなので、結構騒々しい。歩いてマイソール駅へ行く。明日のバンガロール行きの特急列車の切符を手に入れたかった。30分近く歩いて駅に着く。ピンク色の塗装は、一歩間違えたらラブホテルだが、チケット売り場があるので間違いなく駅である。まずは「エンクワイアリー」の表示のある窓口で、特急列車に空席があるかを訊く。例によって、列になっていない列に並ぶ。前の人に身体を密着させないと横取りされる。ここでもコーチンのバスターミナルと同じように暗黙のルールは生きていて、窓口氏は群がりの中からきちんと来た人順に仕事をこなしていた。

窓口で特急に切符があることを確認し、切符売り場の窓口に並んで無事切符を手に入れる。インド最速の特急列車「シャタブディ・エクスプレス」である。シャタブディとは「世紀」の意なので、「世紀急行」ということになろう。切符を手に入れて、今度はエンクワイアリーで「時刻表はないか?」と訊いた。鉄道の旅を面白くしてくれるのはなんと言っても時刻表である。しかし、エンクワイアリー氏が教えてくれた窓口に行って「時刻表をくれ」と言っても、「ここじゃお門違いだぜ、兄ちゃん」というジェスチャーをされる。

時刻表は諦めて、駅の売店で冷えたコーラを買い、ホームのベンチに座って飲む。日本のようにホームと外の世界を区別する改札口が無いので、ホームでは明らかに電車に乗らなさそうな人も昼寝をしていたりする。今は列車の発着が無いらしく、ホームは閑散としていて静かだ。線路を犬が歩いている。コーラを飲みながら、ガイドブックとにらめっこしてこれからの予定を考える。とりあえずマハラジャパレスに行きたい。駅は西の端にあり、マハラジャパレスは東の端にある。マイソールはあまり大きな街ではないので歩いて行けそうだ。道中、街の中心部も通るので、活気ある街並みを覗けるだろう。歩きがてらに覗くとしよう。駅の外へ出た。

マイソールは地方中都市といった趣の街で、高層ビルの類はまったくない。道もそれほど広くない。しばらく歩くと、牛がたむろしている一角に出た。

牛。そういえば、インドに来て3日が経ったが、まだ街中で牛を見ていなかった。南インドには街中に牛がいないのだろうか。デリーに住んでいたころは牛が街中を我が物顔で歩いていたし、ヴァラナシ(ベナレス)に行ったときは路地で牛と正面衝突しそうになった。なのに、今回の旅では牛に全く出会わなかった。突如、街中で牛と出会えて、僕はちょっぴり感動した。

さらに歩くと、街の中心街に来たらしく、両脇が商店でいっぱいになる。道は狭いが、交通量は多い。人々が歩道や車道にあふれている。インドの活気あふれる市街地の風景がそこにはあった。

歩くこと30分。やや道に迷いながらも、マハラジャパレスの門まで来た。が、そこからでは入れなかった。市街地側の門は閉じられているのだ。仕方が無いので、反対側の入り口になっている門まで回る。20分近く歩く。牛とすれ違う。車道を車やリクシャーに混じって、馬車が走る。思わず見入っていると、馬車の親父が、「いいカモ見っけ!」という感じで、突然馬をこちらに向ける。無理やり乗せられて高額な乗馬賃を請求されてはたまらない。早足でその場を離れる。マハラジャパレスにようやく着いたころには、閉館の1時間半前になっていた。日が傾きかけていた。

チケットを買って敷地にはいる。広い庭の向こうに、とてつもなく大きな建物が見える。その建物の入り口まで来ると、土足厳禁らしく靴を預ける場所があった。一足50パイサ(1ルピーが100パイサ)とある。しかし、パイサなんて滅多にお目にかからないし、今は1ルピーコインも持っていない。仕方が無いので、10ルピーを出しておつりをもらおうとするが、ものすごい嫌そうな顔をされて5ルピーだけ返された。10倍のお金をとられてしまった。

靴を預けて館内に入る。チケットを門衛に見せると、「格安でガイドを出しますよ」と、言われた。首を振ってさらに中に進む。床がひんやりする。壁には、このマハラジャ一族の肖像画や、一族にゆかりのある土地の風景画などが陳列されている。吹き抜けのホールには、とても豪華な照明がつるされている。しかし、電球が切れたのか、メンテナンスなのか、おっさんたちが脚立を使って何やらしていた。内装は豪華で、市街地側の一番広い庭向きに競技場の観客席のようなものも設けられている。マハラジャがここで何かの競技をしていたのだろうか。マイソール最大の見所なだけあって、観光客も多い。白人系の観光客もいる。インド人観光客の中には、高性能そうなデジカメを持つ人も多かった。

一通り回って、広い庭でぼんやりと人々の動きを観察してマハラジャパレスを後にする。豪勢な宮殿だったが、北インドで一通り観光を済ませてからここにわざわざ来ても、あまり面白くないかもしれない。陳列物は、どう考えてもジャイプルのシティパレスのほうが多彩で面白かった気がする。

またマハラジャパレスの外縁をぐるりと回って市街地へ戻る。雲行きが怪しい。一雨来そうだ。ネットカフェを見つけて中に入る。そろそろメールチェックをしておきたい。半地下のネットカフェでネットサーフィンをしていると、突然大雨が振り出した。雨季特有のスコールだ。半地下で扉は無いので、店員があわてて土嚢を積み出す。雷もなる。雨が止むまでのんびりとネットをした。

雨が落ち着いてきたので、ネットカフェのとなりにあったピザ屋に入ることにし、ネットカフェをあとにする。僅かな時間の降雨だというのに、道は洪水のようになっていた。水はけが悪いというか、治水がなっておらず、道路わきに排水溝も無いので、水が行き場を無くして道に残るのである。歩道はぐちゃぐちゃで、歩くと泥が跳ねてズボンが汚れる。このジーパン一本しか持ってきていないので、気をつけながら歩く。車道は比較的水溜りが落ち着いているので車道に出ると、後ろから車がけたたましくクラクションを鳴らしてきた。追われるように歩道に戻るとき、よけきれず真っ黒な水溜りに片足をサンダルごと突っ込んでしまった。思わず「ひぃ!」と叫んだ。手遅れ。この後、僕のサンダルは左右で違う色のまま旅を進めることになった。

ピザ屋ではごく普通のピザも売っていたが、ここはインドっぽく、チキンティッカというインド料理名のついたピザを取った。が、これは失敗で、ひたすら辛いだけで到底口に合うものではない。しかも、値段は飲み物とスープを含めると177ルピーと、一食としてはこれまでで一番高くついた。宿代を安く抑えたのに勿体無い。

部屋に戻って、シャワーを浴びる。お湯は出ず、水が弱々しくチョロリと出るだけだ。変な虫がバスルームの端を歩き回る。身体に石鹸を塗りたぐって水を浴び、カラスの行水といった感じで風呂を済ます。マイソールは高地なので夜は涼しい。水シャワーを浴びた上に扇風機を回しっぱなしにすると風邪を引きそうだ。だが、扇風機を止めると虫に襲われるので、風力をもっとも弱い段階にあわせて就寝。夜遅くまで、すぐ裏のバスターミナルは賑やかだ。

インド旅行記2006夏 3.まだまだコーチン(南部)

 明くる朝は、九時に目覚めた。昨日と同じように、外の騒々しさで目が覚めた感じである。前日のカレーが胃に残っているので、朝食は省くことにして、シャワーを浴びて、干していた洗濯物を畳んでから街へ出る。目指すは、街の北のほうにあるバススタンドである。今夜発のマイソール行きバスの切符を手に入れるつもりだ。

 今日も暑い。たちまち帽子が汗でグショグショになる。Tシャツも濡れる。大通りはエンジンの爆音とクラクションと人々の声で賑やかだ。しかし、大通りを一歩出ると、急に静かになる。やがて、バスターミナルが見えてきた。

 バスターミナルの前にはオートリクシャーが沢山人待ちをしていた。ワーラーが声をかけてくる。ターミナルの建物はコンクリートの無機質なものであったが、色だけはケバケバしい水色に塗りたぐられている。中には、売店や食堂などが一通り揃っているようであった。建物内は日差しも遮られていて、風通しがよく涼しいので、明らかに旅行客とは関係の無さそうな人々もたむろしている。

 マイソール行きのバスチケットが欲しいが、どこに売っているのかわからない。チケット売り場が一箇所にまとまっておらず、あちらこちらに散らばっている。ひとつひとつ売り場を覗いて何行きかを確かめながら歩くが、どこも英語の表記が少なく、地元のタミル語の表記ばかりで何行きの切符を売っているのかすら判断しかねる。

 15分ほどうろうろして、ようやく一つの窓口のガラスに貼り付けられた紙の中の、「for BANGAROLE」の経由地(via)に「MYSORE」の文字を見つけ、列に並ぶ。というか、列になっていない。みんなが窓口に押し寄せている、という表現のほうが正しい。しかし、こんな並び方でも一応ルールはあるらしく、窓口氏はきちんとその群集に来た人順に手続きを進めている。窓口に新しい人が群がるたびに、順番など関係なしに窓口氏に話しかけるが、窓口氏は辛抱強く「まぁ、順番を待て」というジェスチャーをする。だから、ちゃんと自分の番も順番どおりに来て、マイソール行きのチケットは問題なく手に入った。今夜の九時十五分発の夜行バス。240ルピー(600円程度)どんなバスが来るのかはわからないが、12時間はバスに乗っているはずだから非常に安いチケットではある。

 客待ちしているリクシャーワーラーを追っ払いながら、30分ほどゆっくりと歩いて昨日のショッピングセンターに行く。昨日と同じバリスタに入る。アイスコーヒーを飲みながら、さて今日は何をしようと思案する。が、昨日と違って、どういうわけか蚊が多い。ハエも飛んでいる。そのうえ、20分も休んでいると中学生だか高校生だかわからない制服姿の一団が入ってくる。昼間からバリスタに来るような生徒達だから、お金持ちの御曹司かもしれない。彼らは賑やかで、店の中で遠慮なく騒ぐ。店内の音楽を調整する機械をいじったりする。ヒンディー語だかタミル語だかわからないポップミュージックが爆音になる。たまらないので、バリスタの横のフードコートに逃げた。

 フードコートでペットボトルのペプシを買う。店の青年は何故か目の前の冷蔵庫からではなく、ちょっと離れた倉庫のようなところからぬるいペプシをわざわざ出した。500ml+100ml増量で22ルピー(55円)。日本より安いが、現地の一般の階層の飲み物ではないはずだ。ペプシやコカと言えば、一ヶ月ほど前に殺虫剤成分が通常の何十倍も含まれていたとかで、インドでは不買運動が起こっていると、日本でも報じられていた。しかし、ミネラルウォーターだけでは限界がある。疲れたときは甘いものの方がいいし、炭酸飲料は元来好きなので、気にせずに飲むことにする。今さら気にしても、五年前の三年間のインド滞在の間に、充分な量のコカコーラやペプシコーラを飲んでいるので意味が無い。

 バリスタは現地のポップが流れていたが、こちらのフードコートでは洋楽が流れる。耳を凝らすと流れていたのはボンジョヴィのYOU GIVE LOVE A BAD NAMEだったりする。「なんでインドで洋楽なんだ・・・」という感想を持ちかけて、それが日本のマクドナルドで「どうして日本で邦楽を流さないんだ」という感想を持つことと同じであることに気が付いた。どうもインドで気持ちが高ぶっているせいか、条理に会わない感想を持ちやすくなっている。正さねば、と思う。

 結局その日は、海を眺めたり、コーチンの街をうろついたりしただけで終わったので、それ以降の詳細は省く。

 夜行バスに備えてホテルで2時間ばかり眠ったあと、昨日のネットカフェに向かう。ブログで報告をしたりしたあと、昨日のImperialレストランに行く。昨日仲良くなった店員の「また明日な!」が心から離れなかった。件の店員は僕の顔を見ると、「よく来た」という顔をした。インドの店では、席に案内されるという習慣が無いようで、自分で空席を見つけなければならない。最初、それに馴染めずに店員の顔色を伺いながらウロウロしていると、「何をしている、早く座れ」という仕草をされた。

 昨日の席に近い場所に陣取る。昨日はチキンカレーとチャパティを食べたので、今日はそれに大好物のダルカレー(豆カレー)を注文する。ライムソーダも忘れずに注文する。ほどなく料理が注文されたとおり来て、昨日と同じようにチャパティ(パン)につけておいしく頬張る。

 と、件の店員が僕の席の正面の席に座る。そして「コインが欲しい」と突然切り出した。「コイン?」。コインが欲しいとはどういうことか?それだけでは意味がわからないので首をかしげていると、僕の理解の域を越える勢いで英語を話し出した。「???」。さっぱり事情が飲み込めない。チップを欲しているのだろうか?インドではチップの習慣は原則的に無いが、観光地ではチップの習慣が染み付いているところもある。二晩、いいサービスをしてきたのだからチップをよこせということか?ちょっとぶっきら棒な言い方だが、まぁおいしい料理を二晩も出してくれたのだし、考えてみればインドに来てはじめてたくさんの物事を話した人ではある。いろいろと話も訊いたし、チップくらい渡してもいいか、とも思う。

 食後、勘定を済ませて、おつりの5ルピーのコインと1ルピーのコインをテーブルに置いて店を出ようとすると、件の店員が「ちょっと待て」という仕草をする。「コインって、そういう意味じゃないんだ。」と彼は言った。そして、仕切りに「ユーロとかは無いのか?」と訊く。そこでようやく「コイン」の意味がわかった。要するに外国のコインが欲しいのである。とんでもない誤解をするところであった。そこで、ポケットに入れてある日本円の入っているほうの財布から100円玉と10円玉と5円玉を取り出して渡した。彼は穴の開いている五円玉を珍しそうに眺めると、笑顔で「ありがとう。また来てくれ」と言った。

 ホテルに戻り、重たいバックパックを背おって、フロントへ降りる。チェックアウトを済ませ、夜の街へ再び出た。午前中のバスターミナルへ向かうのだが、今度は歩きではなくて、ホテルを出るなり目が合ったオートリクシャーの親父に料金交渉をして乗り込んだ。ほとんど問題なく交渉が成立してしまったところを見ると、僕は正規の料金より高めにハードルを設定してしまったらしい。まぁ、いい。オートリクシャーは、混雑する道路を、隙間を見つけては通り抜けるので一般の自動車よりかなり速い。10分もかからずに今朝来たバスターミナルに到着した。

 バスターミナルは、バスを待つ人でいっぱいだった。街灯が少ないので、チケット売り場以外は暗闇である。バスが暗闇の中、明るいライトを照らしてひっきりなしに到着、出発を繰り返す。エアコンの付いているような上等なバスは無くて、窓枠だけで窓の無いバスまである。バスが到着するたびに、乗り切れるのかわからないくらいの人々が群がる。行き先の表示は、現地のタミル語表記だけだ。あまり外国人観光客向けの乗り物では無いようだ。

 自分が乗る予定のバスは、マイソールを経由するバンガロール行きのバスである。タミル語表記しか無いので、乗り場はどこだろうとキョロキョロしたり、人に聞いたりするがわからない。英語を解さない人もいた。

 しかし、バンガロール行きのバスが来たとき、すぐにわかった。というのも、バンガロール行きのバスだけは何故か英語も併記されていたからである。おそらく、コチン→バンガロールのような大都市を結ぶ便は、外国人の利用も少なからずあるのだろう。バスに群がる人を見回してみると、二人づつ白人の女性が二組いた。ただ、外国人はそれだけで、あとは東洋人が一人(自分)とインド人だけだ。バスは、窓は辛うじて付いている、日本で言えばボロバスだった。

 ビニールレザーの安い座席で、二人席と通路を挟んで3人席という詰め込み式であった。リクライニングなどは当然付いていない。このボロバスで12時間を過ごすのかと思うと、少しだけ興奮する。指定されている二人席の窓側に座る。大量の荷物を担いだ人々が次々と乗り込む。僕の前には、例の白人二組のうちの一組が座った。彼女達が喋っているのは英語ではなかった。座席は全て埋まって、立ち客も出始めた。車掌が乗り込んで、一人ひとりのチケットを確認する。そして、車内に備え付けられたベルを「チン」と鳴らすと、エンジンがかかり、バスはコチンのバスターミナルを後にした。定刻より10分遅れの21:10であった。

 ほどなくバスは大通りに出る。周りの車とぶつかりそうになりながら、猛烈なエンジン音を響かせて走る。車体はボロだが、エンジンはタフらしい。耳がおかしくなりそうだ。街中なので、交通量も多い。運転は荒く、急ブレーキを踏んだりする。その度に立ち客が倒れそうになる。彼らは夜、どうやって眠るのだろう。開け放った窓からは排気ガスが入り込む。たまらないが、閉めてしまうと暑い。

 改めてバスの中からコチンの街並みを眺める。わずか2日間の滞在だったが、既に様々な経験をした。レストランの店員のことを思う。後味の悪い最後になってしまったことだけが悔やまれる。川を渡る。雨季なので水量が多い。そして、キリスト教会が多い。インドはヒンズー教やムスリムだけでなく、キリスト教徒もそれなりにいるのだ。派手に電飾を施された教会も多い。目を凝らすと、教会の中にはこれまた電飾を施された聖母マリア像が見えたりする。と、また急ブレーキがかかる。隣を併走する車と接触しそうだ。そこを人が横断し、リクシャーがすり抜ける。二車線の道路が四車線くらいになっている。「母なるマリア様。どうか無事にマイソールまで辿り着けるよう、見守っていてください。」教会の中にマリア像が見える度、僕は祈った。

インド旅行記2006夏 2.コーチン(南部)

 コーチン空港のターミナルを出たのは深夜の2時半だった。流しのタクシーは怖いので、空港であらかじめチケットを買って乗る「プリペイドタクシー」に乗った。値段は高いが、深夜到着で疲れきっているのでまぁよい。もっとも、デリーの空港などでは、このプリペイドタクシーが悪質な旅行会社に連れて行くなど、到着早々のトラブルの原因になっているので、ここコーチンでも気は抜けない。ドライバーにはコーチン市街にある「エルナクラムジャンクション駅に行ってくれ」と伝えた。宿探しはそれからだ。

 タクシーは、インド国産のタータという会社の車。インド産の車の中ではかなり近代的な小型車だ。最近は、日本や韓国資本の車の工場がインドにも出来ているので、自動車業界も随分立派な車を作るようになったようである。インドは90年代に入るまで、工業製品などを輸入しない、自給自足の国だった。

 明かりが少ないので、車は暗闇の中をライトだけで走る。深夜なので、他に車は少ない。自動三輪のオートリクシャーも走っている。バイクを三輪にして、幌をつけただけの乗り物だが、安いので、いずれ乗りたいと思う。が、今は、立派な車の乗客である。エアコンも付いている。エアコンのスイッチを入れてくれているのに、窓も全開にしているのであまり意味が無い。インドでは、エアコンつきの自動車さえ、一昔前までは珍しかったのである。そして、インド人はあまりエアコンを好んで付けるわけでもないようだ。

 しかし、空港から市街地までの距離が長い。いくつも川を渡る。30分ほど車に揺られただろうか。「ひょっとしてこのドライバー、市街地に行かず俺をどこかに連れ込む気じゃないのか?」と心配になりかけたころ、漸く市街地に入った。しかし、連れて行かれた駅は「エルナクラム・ジャンクション駅」では無く、「エルナクラム・タウン駅」だった。ここは、市街地の外れの方の駅なので、ホテルを探すには不便である。

 僕は「ノー、エルナクラム・ジャンクションステーション!」とドライバーに言った。ドライバーは、首を軽く横に振る。これは、「了承」の意である。インド人と話していると気が付くのだが、相手が「了承」の意を示すとき、彼らは軽く横に振る。「拒否」のときは激しく首を振る。日本人には慣れないジェスチャーなので、はじめて見るときは非常に戸惑う。

 10分ほど街の中を走ると、もう一つの駅に着いた。そこが「ジャンクション駅」であること確認してから「サンキュー」と一声ドライバーにかけてタクシーを降りた。駅の規模は大したこと無い。だが、深夜だというのに、駅には足の踏み場も無いほど人が横たわっている。物乞いではなく、単純に朝の列車を待っている風である。大きな荷物を抱え、薄汚れたシーツのような布の上でみんな横たわっている。暗闇で肌も黒いので、眼と歯だけが白く映る。はじめて見る風景では無いが、「いよいよインドに来たな」とも思う。

 時刻は3時過ぎ。これから、深夜の街を重たいリュックを背負って宿を探さなければならない。僕は、沢山の人が横たわる駅を背に、静まり返った夜の街へ足を踏み出した。

 と、いきなりリクシャーの親父が声をかけてくる。「ホテルを探しているのか?連れて行ってやる」と言う。しかし、彼らが連れて行くホテルは彼らが紹介料をもらえるホテルで、そこがいいかどうかはわからない。彼らに委ねるのも悪くは無いが、僕はいくつかガイドブックから安宿をピックアップしていたので、断った。歩いたところで、あまり大きな街ではない。

 本当に静かな街だ。大通りは、一分に一台くらいの車が走るが、その車が走り去ると、虫の鳴き声くらいしか聴こえてこない。やがて大通りを抜けると、街灯もまばらになる。闇の中を歩く。目の前に警官が一人座っているのが闇の中に見えた。職質でもされたら面倒なので、目を合わせないように足早に歩く。白い目がギョロリと動く。

 20分ほど歩いただろうか。目星をつけていたホテルに着く。しかし、開いている気配は無い。夜だからだろうか?傍にいた門衛に何時に開くか訊いたが、門衛はそれには答えず「部屋は無い」という。なんてことだ。本当に部屋が無いのか、深夜に新しい客を連れていくのが面倒なのか、判断できなかったが、何度訊いても「無い」の一点張り。諦めた。

 時刻は4時近く。もはや深夜というよりは早朝である。断られたホテルの前の道をちょっと進むと、海に出た。対岸の島の街の明かりが海に反射している。しばしその景色に見とれていた。しかし、いつまでも海を眺めている暇は無い。

 今来た道を引き返す。と、突然目の前を黒い影が横切る。そして、その影は道の隅っこでジョバジョバと音を立てる。目の前の家の門番の、豪快な朝のオシッコだった。さらに戻ると、さっきの警官に睨まれる。大通りまで戻って、大通り沿いに歩く。一つ、大きなホテルの目の前を通った。持っていたガイドブックにも載っているが、若干予算より部屋代が高いので諦める。さらに進む。リクシャーの運転手が声をかけてくる。面倒くさくなってきた。時刻は朝4時半を回った。日本時間の8時だ。成田空港を出てから20時間が経ったことになる。鳥の囀りも聞こえてくる。

 朝が近いからか、外に出てくる人も増え始め、中には「ホテル探しか?ついて来い」と言う輩もいる。僕は大通りを戻って、件のちょっと予算オーバーなホテルに入った。「部屋は無いか?」。レセプションの若い青年は「もちろんあります。シングルですか?」と応える。「シングルでエアコン無しだ。部屋を見たい」。「かしこまりました」と青年は答え、下っ端っぽい男を呼び出し、鍵を渡して僕を案内させる。下っ端の男は、異常にノロいエレベーターで4階に上がると、ちょっと奥の部屋の扉の南京錠を無造作に開けて、入れという仕草をする。

 部屋は広い。石の床で、広い部屋の隅っこに、小さな木のベッドが所在無げに置かれていた。扇風機が上でカタカタと回っている。ソファーのようなものも置かれている。トイレは紙こそ無いものの、洋式である。シャワーもある。ここにすることにした。レセプションに戻り、一泊500ルピー(1200円程度)であることを確かめ、投宿した。パスポートを預かられたのが心配だったが、あとで返すという。

 部屋で旅装を解く。時計を見ると、既に午前五時を回っていた。鳥のさえずりだけが外から聞こえる。ぬるいお湯のシャワーを浴びて、インドに着いたのだなあと実感しているうちに眠ってしまった。長い、本当に長い一日であった。

 ものすごい喧騒で目が覚めた。時計を見ると、午前十一時を少し回ったころ。部屋が大通りに面していたのだ。けたたましいクラクションの音と、エンジン音、人々が叫ぶ声。五年以上も前にデリーで聴いたあの喧騒と一緒だ。紛れも無いインドの街の音。「インドに戻ってきた」。まだ眠たかったが、いてもたってもいられなくなり、トイレを済ませパスポートを返してもらってから、喧騒のコーチンの街へ出た。

 ガイドブックの地図で、この街の地理はなんとなく判っていたので、とりあえずでたらめに海のほうへ向かって歩いてみる。サリーを着た人とすれ違う。リクシャーの運転手(ワーラー)が声をかけてくる。野良犬が寝そべる。歩道は破壊的に汚いので、車道の隅っこを歩くのだが、後ろからバイクやリクシャー、トラックや乗用車が遠慮なく接近してくるので、最大限の注意を払わねばならない。そして、何よりも暑い。汗が噴出してくる。

海沿いの通りらしいところに出る。ガイドブックを開いて自分の居場所を確認し、ジェッティーを探すことにする。ジェッティーとは、舟着き所のこと。舟は、大きく分けて三つの地区からなるコーチンでの重要な交通手段の一つである。しかし、地図でジェッティーがあるべき場所へ向かう道が見つからない。海沿いの遊歩道は見つかる。

遊歩道をひたすら進むと、BARISTAと書かれた赤いコーヒーのマークが見えた。バリスタはインド版スターバックス。五年前は名前をチラと聞く程度だったが、今やインド全土に展開しているコーヒーチェーンである。バリスタはこの先十日間の旅の間、何度もお世話になった。とかく体力を使うインドでの旅の場合、エアコンが効いた場所で休憩するのは体力温存と言う意味で大変重要である。

バリスタの扉を開ける。涼しいエアコンの風が身体に当たる。店員の愛想はそれほど良くないが、これはインドでは普通である。愛想が良いほうが、逆に怪しまなければならないこともある。アイスコーヒー(39ルピー=約100円)を頼む。ストレートが好きなのだが、この国では砂糖とミルクをコーヒーや紅茶にたっぷり入れるのが習慣である。程なく甘いコーヒーが供される。まだ40分程度しか歩いていないのに、非常に疲れた。この先のことも考えて体力は大事にしなければ、と思う。30分ほど休む。ガイドブックを開いて、ジェッティーの場所を再度確認してから出発。

ジェッティーは空き地のような場所にあった。僕は東京の水上バス乗り場のようなものを想像していたので、これでは見つからないわけだ、と思いながら舟に乗り込んだ。僕が乗り込むとすぐ出発した。エンジンが爆音をあげる。耳がおかしくなりそうだ。車掌が来てお金を払うと、ザラ版紙のショボイ切符を渡された。舟で、フォートコーチンと言う旧市街のようなところへいくつもりである。海を眺めていると、向かいの島には沢山の大型貨物船が停泊している。このあたりの海にはイルカもいるという。目を凝らしたが、見れなかった。

20分ほどでフォートコーチンのジェッティーに到着する。こちらは、コーチン市街(エルナクラム)に比べるとかなり田舎である。簡易舗装の道路が続く。僕は、またでたらめに歩き出した。ユダヤ教のシナゴーグと、ダッチパレスと言うオランダの総督が住んだ建物に行ってみようと思う。

 それらしき方向へ向かって歩いているつもりなのだが、かなり香辛料臭い商店街のようなところを進んでいる。商店街といっても、走る車も少なく、ときおりリクシャーとすれ違う程度である。宿泊しているホテル周辺のような喧騒とはまったく無縁な空間である。30分ほど歩いた。しかし、ダッチパレスもメインジェッティーも見つからない。土産物屋が増えてきて、執拗に僕を連れ込もうとする。疲れる。

 ガイドブックの地図に寄れば、ここはフォートコーチン地区の南にあるマッタンチェリー地区で、ここにもジェッティーがある。ここのジェッティーは土産物屋の並ぶ道の奥にあった。桟橋では釣りをしている人がいる。15分ほど待つと、エルナクラム行きの舟が来た。大した観光も出来なかったが、コーチンが喧騒のエルナクラム地区と静寂のフォートコーチン、マッタンチェリー、などの様々な地区から成り立っていることがわかったのでそれだけで満足である。

 舟は再びエルナクラムに向けて出航した。途中でフォートコーチンなどのジェッティーを経由する。隣に座った親父が、日本人をはじめてみた!的な顔で覗き込んでくる。これも、南アジアではよく経験することだと思う。やがて親父は耐えられなくなったのか、「ハロー、どこから来た?」と訊いてきた。「日本」と応える。「仕事はなんだ?旅行で来ているのか?」「学生だ。旅行で来ている」。訛りの非常に強い英語である。

 エルナクラムの空き地のようなジェッティーに戻って、バリスタがあった建物に戻る。この建物は高級ショッピングセンターのようで、フードコートがあった。中華のファストフードのような店で、チキンヌードルとペプシを頼む。味はそこそこであった。インドでは、インド料理の次に中華料理をよく見かける。食事をしながら、コーチンを出たらどこへ行こうか悩む。最初はインドの最南端に行こうと考えていたのだが、飛行機の中でガイドブックを見ていると、最南端に行くと電車でニ連泊をしなければならないことに気がついた。10日の旅を二泊も連続して電車で過ごすのはどうも惜しい気がした。そこで、コーチンから北へ進んでマイソールというところへ行くことを考えた。

 マイソールは、イギリスの植民地支配に頑なに抵抗したマハラジャがいた土地である。結局彼らはイギリスに負けるのだが(マイソール戦争)、その後イギリスにこの土地の自治を委ねられた別のマハラジャの繁栄が栄華を極め、彼らの住む宮殿はインドでも最大の規模を誇るほど大きな宮殿だという。

 問題はどうやってマイソールまで行くかである。鉄道は面白そうだが、まずは深夜バスで行くことにした。こういう移動手段は、体力が余っている旅の序盤で経験しておこうと思ったからである。バスは安いので、旅の序盤から無駄にお金を使うことも無い。

 ホテルに一旦戻り2時間ほど休む。備え付けのバケツで洗濯をする。部屋に、日本から持ってきたロープを張り巡らせて、洗濯物を干す。シャワーで、外でくっつけてきた埃を洗い流す。6時半になって、夕食とネットカフェを探しに再び街へ出た。

 ネットカフェはすぐに見つかった。30分で20ルピー(50円)である。日本語は打てなかったので、ローマ字で生きていることを親に伝え、ブログでも報告し、ムンバイで別れた友人にもmixiでメッセージを送る。このネットカフェは、空調はおろか、扇風機すら付いていないので、大汗をかきながらネットをする羽目になった。おまけに、どこから沸いてきたのか、巨大な蚊が腕や足に吸い付いてくる。たちまち腕と足が真っ赤に腫れた。

 ネットカフェを出て、夕食を食べられるようなレストランを探す。やはり、インド料理が食べたい。30分ほどうろついて、Family Restaurant Imperialなるレストランを見つける。ファミレスと言うよりは、扉が無い土間の続く町食堂である。中ではファンが回っている。明るくて清潔なレストランだ。大きなチャパティ(発酵させないパン)とチキンカレー、ライムソーダを頼む。

 店員が絡んでくる。例によって質問は「どこから来た?」「家族は何人だ?」「いつまでいるんだ?」といった感じだ。「日本から来た」「家族は五人」「コチンは明日には出ると思う」。彼は、インドのかなり南のほうにあるリゾート地コヴァーラムビーチで働いていたそうで、妹がいる。そんなことを話していると、「バックウォーターツアーはいいぞ。行ったほうがいい。」と言って来る。バックウォーターツアーとは、水郷地帯をボートで進むツアーのことで、この辺りでは有名な観光名所である。時間があれば僕も行きたかった。

 65ルピー(160円ほど)の大変おいしい夕食を終え、お金を払い店を出ようとすると、件の店員が「ありがとう。また明日な!」と言ってきた。明日また来るのも悪くない。ただ、この店にも蚊がいっぱいいたようで、夕食を終えた頃には足は無残な姿になっていた。

 ホテルに戻り、テレビを眺めながら就寝。

インド旅行記2006夏 1.エアインディア

 エアインディア に乗るのは始めてである。評判はあまり芳しくないようであった。機材が古く、「郷に入れば郷に従え」などと評した文章も見た。今日8月30日という一日の大半を、エアインディアで過ごす予定なので少々心配になった。

 友人と成田空港で合流し、チェックインと手荷物検査を済ませる。荷物は基本的に預けない主義なのだが、今回は液体物を手荷物として持ち込めないとのインド政府のお達しもあったので、やむなく預けることにする。これで、15時間後のコーチンの空港のターンテーブルに僕のリュックが現れなかったら、その先の貴重な10日間の予定が狂ってしまう。

 エアインディアは、他の航空会社と違い、所定の手荷物検査のほかに、搭乗直前にもう一度手荷物検査を行っている。こっちの手荷物検査は、一つ一つカバンの中身を検めるので煩わしいが、安全に飛んでくれるための検査なら何度やってもいいとも思う。

 非常案内のビデオは、ヒンディー語英語日本語の順に放映される。全てを放映するのに10分以上はかかると思う。サリーを着たキャビンアテンダントの「ナマスカー」の声を聞いたとき、その空間はもう既に日本ではなかった。定刻よりやや遅れて、ガラガラのジャンボジェットは第一目的地のバンコクに向けて離陸した。正午を30分ばかり過ぎたころだった。

 離陸してすぐ、飲み物サービスと機内食が供される。ベジタリアンとノンベジタリアンにメニューが分かれている。ノンべジを頼むとチキンカレーが出てきた。これから毎日カレーと付き合うのであろう。カレーと言う料理は、機内食に向いているのか、エコノミークラスの機内食のわりに非常においしかった。ただ、生野菜がキュウリの切れ端一本に味噌をつけた「モロキュー」だけだったのは面白かったが。全て平らげる。

 機内食が終わると、もうやることが無い。最近ではエコノミークラスでも個人テレビが付いているのが世界の流れだが、エアインディアの古い機材にそんなものは付いていない。前方のスクリーンでインド映画を流している。観ている日本人は少ないようである。座席の占有面積はエコノミーとしては余裕のあるほうなので、座席を倒して上空一万メートルの昼寝を楽しむ。搭乗率は30パーセント程度なので、機内は静かである。

 うつらうつらして三時間ほど過ごすと、再び軽食が配られる。今度はカレーではなくサンドウィッチだった。特になにもしていないが、腹だけは減るので全て平らげる。

 軽食が片付けられると、我がジャンボ機はバンコクに向けて高度を下げ始めた。が、なかなか着陸しない。空港が混雑しているため着陸するまで時間がかかるとの機長の放送が入る。無事着陸したが、ゲートが空いていないらしくターミナルから離れた場所で一旦止められる。20分ほど待って、ターミナルに到着。タイでバカンスを過ごすらしい日本人が沢山降りて行った。このままインドまで行く乗客はバンコクでは降りられず、狭い飛行機の中で1時間半を過ごさなければならない。

 残されたわずかな日本人とインド人乗客が、神妙な面持ちで機内で待機していると、タイ人のおばちゃんたちが一斉に乗り込んで、せっせと機内清掃をはじめた。なかなか荒々しく掃除機などをかける。「機内で待つほかの乗客のことなど目に入りませんよ」といった感じの掃除である。枕カバーなどが手際よく変えられていく。最後部では機内食が搬入されている。

 やがて、掃除のおばちゃんたちが出て行くと、バンコクからの乗客が乗り込んできた。今度乗り込んでくるのはインド人だけである。いっぱいになるかな?と思っていたが、結局4割にも満たない搭乗率のまま、バンコクをあっさり離陸してしまった。

 3度目の機内食が配られる。覚えていないのだが、僕のメモには「辛いチキン料理」と書いてある。タイのヨーグルトもある。やはり空腹なので完食した。配られたものは全て食べてしまおう、との考えが生まれてきた。

 バンコクからデリーまでは3時間半程度。またうつらうつらしていると、日が暮れ、デリーの町並みが窓越しに見え、インディラガンディ国際空港に着陸した。5年ぶりのインド。隣に座る友人に気付かれないように一人で感傷的になる。ここで、成田からの日本人乗客の大半が降りた。しかし、僕らはこのままこの飛行機の最終目的地ムンバイまで飛ぶので、デリーでも降りることが出来ない。

 今度は髭を蓄えたインド人の青年(?)たちが、一斉に掃除を始める。きびきびとしているが、タイ人のおばちゃんたちほど激しくはない。ヒンディー語が頭上を飛び交う。最後部では再び機内食が搬入されている。どうやら、今日4度目の機内食もあるようだ。

 デリーでは僅かな乗客しか乗らず、搭乗率は20パーセント未満程度になった。ローカル線といった風情だ。日本人は殆どいない。周りはインド人や南アジア系と思しき人々だけ。デリー→ムンバイ線は、日本で言ってみれば羽田→大阪線のような幹線であるはずなのだが。

 隣に座る友人とあれやこれや話す。彼とは、次のムンバイでお別れである。彼はムンバイでインドに入国し、僕はムンバイからさらに飛行機で南インドのコーチンへ向かう。僕らはここから、別々の経路でインドを旅することになっている。4度目の機内食はさすがにきつくなってきたので、メインディッシュなどだけを食べて、半分は残す。しかも、異常に辛い。キャビンアテンダントに水を頼むと、「日本人には辛すぎるでしょ?」と言って、ニヤリとする。機内食ばかりで胃が疲れてきた。

 真っ暗な機内。客がすくない事もあって、かすかに寝息が聞こえてくるくらいで、あとは飛行機が風を切る音だけだ。やがて、ジャンボ機は成田から延々15時間近くかかってムンバイに着陸した。15時間も同じ飛行機に詰め込まれていたのは初めての経験だ。

 ムンバイの空港で、僕と友人は劇的な別れをするつもりだったが、かなりあっさりとした別れになってしまった。「乗り継ぎはこっちだ」という係員に僕だけ誘われ、友人に「じゃあ、またネットで会いましょう」(mixiで連絡を取り合う予定だった)などと二言三言交わし、彼は入国審査上のほうへ消えた。僕は、他の乗り継ぎ客と共に係員に連れられ出発ロビーに連れて行かれる。係員に誘われるままに歩いていくと、カウンターが現れ、航空券を見せると搭乗券を渡される。これで、コーチンへの出発の手続きはおわってしまう。

 手荷物検査。当然ながら回りはみんなインド人だ。インドに着たんだな、という実感がわいてきた。

 ムンバイからコーチンまでの飛行機の中では、僕は熟睡していた。五度目の機内食は、さっぱりしていそうなパインアップルだけ食べて、メインディッシュの包みは開ける気も起きなかった。五度連続で機内食を食べるのも、人生でこの先二度と無い様な気がする。目が覚めると、コーチン着陸寸前であった。

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